科学的根拠に基づく排出削減目標(SBT)の進捗評価と投資家視点:企業のGX戦略とESGポートフォリオへの影響
導入:SBTの重要性とESG投資における注目度
気候変動問題への対処は、パリ協定の「1.5℃目標」達成に向けて喫緊の課題であり、企業活動においても温室効果ガス(GHG)排出量の大幅な削減が求められています。その中で、科学的根拠に基づく排出削減目標(Science Based Targets:SBT)は、企業が自社の排出削減目標をパリ協定の目標達成に必要な水準と整合させるための国際的な枠組みとして、急速にその重要性を増しています。
SBTは、単なる企業の自主的な目標設定に留まらず、科学的な知見に基づいている点で信頼性が高く、投資家をはじめとするステークホルダーからの評価も高まっています。ESG(環境・社会・ガバナンス)投資の潮流が加速する中、SBTの策定とその進捗状況は、企業の脱炭素戦略の具体性を示す重要な指標となり、ESG評価や投資判断に大きな影響を与えています。
本稿では、SBTの基本的な枠組みから、企業における進捗評価の現状、データ分析の重要性、そしてESG投資家がSBTをどのように評価し、ポートフォリオ構築に組み込んでいるかについて、詳細な分析視点を提供いたします。また、企業のグリーントランスフォーメーション(GX)戦略との関連性についても考察し、読者の皆様の研究や実務に資する情報を提供することを目指します。
1. SBTの概要と企業に求められる排出削減目標
1.1. SBTイニシアティブの定義と目標設定の基準
SBTイニシアティブ(SBTi)は、CDP、国連グローバル・コンパクト、世界資源研究所(WRI)、世界自然保護基金(WWF)の4団体が共同で設立した国際的な共同イニシアティブです。企業が設定するGHG排出削減目標が、パリ協定の目標、すなわち世界の気温上昇を産業革命前と比較して1.5℃に抑える科学的根拠と整合しているかを評価し、認定する役割を担っています。
SBTは、以下の主要な目標タイプに分類されます。
- 短期目標(Near-term targets): 通常5〜10年先の削減目標で、Scope1(自社での直接排出)、Scope2(他社から供給された電力・熱の使用に伴う間接排出)に加え、Scope3(サプライチェーン全体からの間接排出)の一定割合に対する目標設定が求められます。特にScope3は、多くの企業において排出量の大部分を占めるため、その削減努力が重要視されます。
- 長期目標(Long-term targets): 2050年までにネットゼロ(Net-Zero)達成を目指す目標で、GHG排出量を90〜95%削減し、残余排出量を炭素除去技術などで相殺する計画が求められます。
- ネットゼロ目標(Net-Zero targets): SBTiが定義するネットゼロとは、長期目標としてScope1, 2, 3の排出量を90%以上削減し、残りの排出量を炭素除去プロジェクトによって相殺することを指します。
企業がSBTiに目標を申請する際には、排出量データ、ベースライン年、目標年、削減目標値、削減戦略などを詳細に提示する必要があります。これにより、目標の透明性と信頼性が確保されます。
1.2. 企業がSBTを設定するメリットと課題
SBTの策定は、企業にとって多岐にわたるメリットをもたらします。 第一に、企業の脱炭素戦略を明確化し、具体的な削減パスを示すことで、長期的な事業計画に気候変動リスクと機会を統合することができます。これにより、将来の規制強化や炭素価格上昇への耐性を高め、事業継続性を確保する上で重要な要素となります。
第二に、SBTは投資家からの評価を高める上で不可欠な要素です。SBTを設定している企業は、環境意識が高く、将来性のある企業として認識されやすく、ESG評価機関からの評価向上や、ESG投資家からの資金流入に繋がります。
一方で、SBTの策定と達成には課題も存在します。 特にScope3排出量の算定と削減は複雑であり、サプライヤーとの連携、データ収集、技術的支援が不可欠です。また、再生可能エネルギーへの転換、省エネルギー設備の導入、プロセスの革新には、相応の初期投資が必要となります。中小企業や発展途上国の企業にとっては、これらのハードルが特に高くなる可能性があります。
2. SBTの進捗評価とデータ分析の重要性
2.1. 進捗評価の指標と報告のフレームワーク
SBTを策定した企業は、その達成に向けて具体的な行動を取り、進捗状況を定期的に報告する責任があります。進捗評価の主要な指標としては、以下の点が挙げられます。
- GHG排出量の実績値(Scope1, 2, 3): 毎年開示されるGHG排出量データは、目標に対する進捗を測る最も基本的な指標です。
- 目標達成率: ベースライン年からの削減量と目標値との比較によって算出されます。
- 再生可能エネルギー調達率: Scope2排出量削減に直結する指標であり、RE100への加盟も注目されます。
- サプライヤーへのエンゲージメント状況: Scope3排出量削減のため、主要サプライヤーに対するSBT設定要請や、削減目標に関する情報共有の割合などが評価されます。
これらの情報は、CDP(旧カーボン・ディスクロージャー・プロジェクト)の質問書への回答や、統合報告書、サステナビリティレポート、そしてTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)提言に基づく開示を通じて公開されることが一般的です。特にCDPは、企業間の気候変動関連情報の比較可能性を高める上で重要な役割を担っており、SBTの進捗に関する詳細なデータが参照可能です。
2.2. データ活用の重要性と研究への示唆
SBTの進捗評価において、正確かつ信頼性の高いデータ活用は不可欠です。GHG排出量の算定においては、GHGプロトコルなどの国際的なガイドラインに準拠し、第三者による検証を受けることでデータの信頼性を高めることができます。特に、Scope3排出量の算定は複雑であるため、排出源の特定、データ収集手法、算定方法の透明性が研究者や投資家から重視されます。
研究者にとっては、企業の公開データ、特にCDPデータベースや各企業の統合報告書は、SBTの進捗に関する貴重な情報源となります。これらのデータを用いることで、以下のような分析が可能です。
- SBT設定企業と未設定企業におけるGHG排出量削減の比較分析: SBT設定が実際の排出量削減にどれだけ貢献しているかを定量的に評価できます。
- 業種別・地域別のSBT達成状況の差異とその要因分析: 業種固有の課題や各国の政策環境がSBT達成に与える影響を考察できます。
- Scope3削減戦略の類型化とその効果測定: サプライヤーエンゲージメント、製品設計変更、ロジスティクス最適化など、具体的なScope3削減施策の効果を比較分析できます。
例えば、CDPが毎年公開する「Aリスト」企業や、SBTiのウェブサイトに掲載されている企業リストは、SBTの進捗を評価するための出発点として有用です。これらのデータから、目標値に対する実績値の乖離、削減ペースの加速・減速要因、再生可能エネルギー導入における投資規模などを深掘りすることが可能となります。
3. ESG投資におけるSBTの評価軸と投資家視点
3.1. 投資家がSBTを重視する理由
ESG投資家は、SBTを企業の気候変動戦略の信頼性と実行可能性を評価するための重要な指標として位置付けています。その主な理由は以下の通りです。
- 信頼性の高い削減目標: SBTは科学的根拠に基づいており、企業の自主目標よりも客観的で信頼性が高いと見なされます。これにより、企業の「グリーンウォッシング」リスクを評価する上での有効なツールとなります。
- 気候変動リスクの管理: SBTを設定し、その達成に向けて取り組む企業は、将来的な炭素税導入、排出量取引制度の強化、物理的リスク(異常気象など)といった気候変動関連リスクに対するレジリエンスが高いと評価されます。
- 長期的な企業価値向上: 脱炭素化への投資は、エネルギー効率の向上、新たなグリーン市場への参入、ブランドイメージ向上など、長期的な企業価値向上に寄与すると考えられています。
- ポートフォリオの脱炭素化: 投資家自身も、ポートフォリオ全体のGHG排出量削減目標を設定しており(例:Net Zero Asset Managers Initiative)、SBTを設定・達成する企業への投資は、自身の脱炭素目標達成に貢献します。
3.2. ESG評価機関と投資家のポートフォリオ戦略
主要なESG評価機関(例:MSCI, Sustainalytics, CDPなど)は、SBTの策定状況とその進捗を企業のESG評価項目に組み込んでいます。具体的には、SBTi認定の有無、目標の水準(1.5℃整合性)、Scope3目標の包含、進捗報告の透明性などが評価されます。これらの評価は、投資家の投資判断に直接的な影響を与えます。
投資家は、SBTを以下の点でポートフォリオ戦略に活用しています。
- ポジティブ・スクリーニング: SBT設定企業、特に1.5℃目標と整合する目標を持つ企業を優先的に投資対象とする。
- エンゲージメント: SBT未設定企業や進捗が遅れている企業に対し、目標設定や削減努力の強化を促す株主エンゲージメントを実施する。
- テーマ型ファンドへの組み入れ: 気候変動対策や脱炭素化をテーマとするファンドにおいて、SBT達成企業を主要な構成銘柄とする。
- グリーンボンド・サステナビリティ・リンク・ローン: SBT達成にコミットする企業が発行するこれらの金融商品への投資を通じて、資金面から企業の脱炭素化を支援します。例えば、サステナビリティ・リンク・ローンは、SBTの達成状況に応じて金利が変動するため、企業にとって強力なインセンティブとなり得ます。
4. GX戦略とSBTの統合
グリーントランスフォーメーション(GX)は、脱炭素化を経済成長の機会と捉え、産業構造や社会システムを根本から変革する取り組みです。日本政府は「GXリーグ」を設立し、脱炭素に意欲的な企業が連携して排出量削減に取り組み、経済成長との両立を目指しています。
SBTは、このGX戦略を推進する上で核となる要素です。SBTiに認定された目標を持つ企業は、GXリーグにおける先行事例として、その知見や技術を共有し、他の企業の脱炭素化を牽引することが期待されます。GXリーグ参加企業は、2030年までの目標設定と、その進捗開示が求められますが、この目標設定においてSBTiの基準を活用することは、国際的な信頼性を確保する上で極めて有効です。
また、各国の脱炭素政策や排出量取引制度の導入は、SBT達成への外部的な圧力を高めます。企業はこれらの政策動向を注視し、SBT達成に向けた投資計画や技術開発を加速させる必要があります。SBTは、政策リスクを機会に変え、競争優位性を確立するための羅針盤としての役割も果たします。
結論:SBTが示す企業の持続可能性と未来への道筋
科学的根拠に基づく排出削減目標(SBT)は、企業の脱炭素戦略の中核をなし、ESG投資家からの評価を決定づける重要な要素となっています。SBTの策定と進捗評価は、単なる環境規制への対応に留まらず、企業が長期的な競争優位性を確立し、持続可能な社会の実現に貢献するための不可欠なプロセスです。
本稿で示したように、SBTの進捗評価には正確なGHG排出量データの収集と分析が不可欠であり、研究者にとっては、これらの公開データを活用した多角的な分析が新たな知見をもたらす可能性を秘めています。また、投資家視点からは、SBTは企業のグリーンウォッシングリスクを識別し、ポートフォリオの脱炭素化を推進するための信頼性の高いツールとして機能しています。
今後、SBTの対象範囲はさらに拡大し、生物多様性(Science Based Targets for Nature: SBTN)など、気候変動以外の環境側面との連携も進むことが予想されます。企業は、SBTを起点とした包括的なサステナビリティ戦略を策定し、継続的なGX推進を通じて、持続可能な未来への貢献と企業価値向上を両立させることが求められるでしょう。
読者の皆様には、SBTiの公式サイトやCDPの公開データ、各企業の統合報告書などを参照し、ご自身の研究テーマや実務における深掘りに役立てていただければ幸いです。